政治・法律面から見た日仏通商条約締結前後の日本とフランス - フランスと日本の関係②

トップ画像:“First Franco-Japanese Treaty 1858” via Wikimedia Commons.

前回は、鎖国中~開国までの日本とフランスの関係について見てきました。1858年日仏修好通商条約締結により、日本とフランスの交流は本格化していきます。

今回は日仏修好通商条約締結前後の日本とフランスの関係について政治や法律面から見ていきます。

日仏修好通商条約の締結

幕末、フランスをはじめ日本に開国を迫る国が多くありました。1858年に、アメリカ、フランス、ロシア、オランダ、イギリスの5か国と結んだ条約を安政五カ国条約と呼び、フランスと締結したのが日仏修好通商条約です。

しかし、これらの条約は関税自主権(関税率を決める権利)がなく、治外法権(領事裁判権)が認められるなど不平等条約と呼ばれていました。治外法権とは、日本にいる外国人を日本の法律で裁くことができず、本国の法律で裁くことをいい、領事裁判権とは、日本にいる外国人が日本で罪を犯したとき、本国の領事が裁くもの。不平等条約と言われるのも頷けます。

明治維新後の新政府にとって、旧幕府が締結した不平等条約の改正は大きな課題でした。

フランスの政治思想の導入

不平等条約の見直しを求めることや欧米諸国の視察、海外交渉などを目的に外交官や留学生、岩倉具視をリーダとした使節団(岩倉使節団1871~1873)はフランスなどヨーロッパ諸国を頻繁に訪れるようになりました。岩倉使節団は不平等条約の改定にはいたりませんでしたが、フランスの産業に関する報告書などを残しました。また、初代駐仏公使である鮫島尚信らによって近代的な外交ルールが理解されるようになったことで、日本の外交活動の基礎となりました。

フランス大統領を訪問する岩倉使節団 Iwakura Mission with President Thiers on December 26, 1872” via Wikimedia Commons.

一方、明治政府が不平等条約の改定を行うにあたり、法典の編纂が急務となりました。そこで、政府はヨーロッパ諸国において法制の模範とされているナポレオン法典などのフランス法を参考としました。ただし、そのまま用いるのではなく、オランダやイタリア、ベルギー民法なども参照しながらできるだけ日本の慣習と調和するように調整を施しました(旧民法典)。しかし、この旧民法典は民法論争によって施行にはいたりませんでした。

その後に成立した現行民法典は、旧民法典と異なり様々な外国法典や法令などを参照しながらもドイツ民法典第一草案の影響を強く受けたものと言われています。しかし、起草者のほとんどがフランス留学経験者であることやフランス民法の参照頻度を鑑みるとフランス法の影響は少なからずあったと考えられています。

ほかにもフランスの政治思想に対する関心は、自由民権運動などの政治運動などに大きな影響を与えました。自由民権運動とは旧士族や農民などを中心とした国民の政治参加や国会開設などを要求した政治活動のことです。これは、当時の藩閥政治(特定の藩出身者が政府の要職を独占して行った政治形態)を批判し、地方自治や言論の自由、不平等条約改正などを掲げたものです。

自由民権運動の理論的指導者である中江兆民は、フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介したことでも知られており、フランス政治思想の影響があったことがうかがえます。

次回は日仏修好通商条約締結以降の関係について経済・産業面から見ていきます。